「外に期待してない」――吉野で聞いた、迷いのない言葉
吉野町のロケハン手記
レポート
大和上市の駅に降り立つと、遠くには山があり目の前は下り坂だ。こういう風景に感じるのは、川の気配。むろん、訪れる前に調べたので吉野川があることは百も承知だ。
昨日の雨で、吉野川は鶯色に染まっていた。普段より少し水かさを増しているのだろう。深みがある流れは、停滞を許さない。雨の翌日に川がこの色になるのは、私の田舎も同じだ。季節を山で見て、昨日を川で見る。日本の山あいの町は、どこか川でつながっている気がする。
川沿いの道を二十分ほど歩くと、目的の宿「吉野杉の家」に着く。想像よりもずいぶんと川のすぐ近くにある。
「この目の前が、木を留めて回収する場所だったんですよ」
ホストの辻健太郎(吉野と暮らす会)さんが、川面を指して教えてくれた。
吉野の林業は、五百年の歴史を持つといわれる。室町時代にはすでに植林が始まっていたと伝わり、人の手で木を植え、育て、伐採するという営みを綿々と紡いできた。
吉野の山の木は、苗を異例なほど密に植え、何十年もかけて間伐を繰り返しながら、ゆっくりゆっくり太らせる。そうして育った杉は、年輪が細かく詰まり、節が少ない。おそらく、木目は一本の線のように伸びているだろう。
江戸の昔には酒樽の材として大坂や灘へ送られ、天下の酒を支えた。山で伐採された木は筏(いかだ)に組まれ、この吉野川をそのむかしは和歌山まで下っていったのだ。ちなみにすべて辻さんの受け売りである。
つまり、いま私が眺めているこの鶯色の川は、かつての「木の道」だったということか。吉野町が発展していったとき、宿の目の前は、川を下ってきた木を留め、引き揚げる場所だったというわけだ。
聞けば辻さんは、生まれも育ちも吉野町で製材所が稼業だという。川の歴史、木の歴史、町の歴史。その語りを聞いていると、吉野以上に辻さん自身に興味がわいた。
「地元の歴史って、学校で習うんですか。それとも自然に身につくものですか」
辻さんは少し遠い目をして、はにかんだ。
「いや、教えてくれないです。製材業をはじめてから知りました」
この答えが、妙に残った。
地元に生まれたから、その土地を知っているわけではない。木に関わる仕事に携わってから、初めて見えてきたものがある――。考えてみれば、私もふくめ、誰もがそうではないだろうか。住んでいるだけでは、疑問はわかない。大きな家は大きな家だ。仕事をしてから地元の名士の家であることがわかったりする。手を動かして、そこで生きてこそ、その土地について知ることは多い。
翌日は、町内の製材所を吉川晃日さんに案内してもらった。吉川晃日さんは、木のある暮らしの魅力を伝える「よしのウッドフェス2023」のプロジェクト実行責任者だ。
製材所に並んだ木材は、現在は杉よりも桧が多いと言う。生家の裏手には杉林もあったはずの私だが、その区別が恥ずかしながらまったくつかない。そんな気持ちもあってか少し意地の悪い質問を吉川さんにしてみた。
「やっぱり、ぱっと見ただけでわかるんですね?」
「いや、わかんないときありますよ」
明るい表情で即答された。正直な人である。
ひと通り案内してもらったあと、用意してきた質問をぶつけてみた。吉野には、企業の研修や視察など、外から人が大勢やってくる。そういう「よそ者」に、何を期待しているのか。吉川さんは即答だった。
「来てくれればそれだけでうれしいです。外に期待してないんで」
もちろん、明るい表情で。
「期待してない」という言葉を、嫌味でもなく、突き放すでもなく、これほど率直に伝えられる人はそうそういない。続けて吉川さんは「アイデア無価値」と言った。環境の変化や外からの提案を待つのではなく、自分たちがプレイヤーとして動く。動かないアイデアに価値はない。
考えてみれば、木は植えてから伐採するまで百年以上かかるものもある。植えた人は、その木が木材になる日を見ない。それでも植える。つまり、期待せず、しかし手を止めない。吉川さんの迷いのない即答はそんなところから来ているのかもしれない。
吉野に別れを告げる際に、もう一度、鶯色の川をながめた。木を運ばなくなった川は、それでも変わらず流れていた。
帰宅してこの原稿を書きながら、リビングの床に目を落とした。確か、不動産屋は木の種類をチェリーウッドと言っていたか。この木は、どこから来て、誰が植えたのだろうと思いを馳せる。20年住んでいるが、そんなことを思ったのは初めてだ。
吉野は、木に思いを馳せるきっかけになる町である。訪れる価値は大いにある。